ワクチン特許権の放棄?

新型コロナウイルスのワクチン開発が盛んとなっていますが、各国ではワクチンに関する特許権を一時的に放棄するよう求める声があるようです。

欧州連合(EU)は7日から始まる首脳会議で、新型コロナウイルスのワクチン供給拡大に向けて、特許権を一時的に放棄する考え方を支持するかどうかを討議する。バイデン米政権が前向きな姿勢を示したためだが、ドイツのメルケル政権は反対する構えだ。特許権を持つ製薬会社が本拠地を置く国・地域での議論が本格化する。新型コロナ: ワクチン特許の一時放棄、独が反対 EU首脳が議論へ: 日本経済新聞

報道では主に「特許権を放棄する」という表現となっていますが、これは厳密な意味での「特許権の放棄」ではなく、いわゆる「強制実施権」「裁定実施権」のことをいうものと思われます。

わが国には、このような特許権の一時放棄を求める規定があるでしょうか。

強制実施権とは

どのような国の特許制度でも、特許権者は特許発明の実施をする権利を専有するというのが基本となります。よって、いかなる新薬であっても、特許権で保護されている場合には、特許権者と、特許権者から許諾を得た者以外は、製造したり、販売したりすることはできません。

いうまでもなく、新型コロナウィルスのワクチンのように、多数の者の生命に係わる発明を特定の者に独占させると、社会的な弊害が大きい場合があります。よって、そのような場合に、政府等が強制的に実施権を設定できるような制度、すなわち強制実施権制度が、各国の特許法に定められています。

強制実施権とは、一定の要件を充足した場合に、政府等が特許権者の承諾を得ずとも、強制的に付与できる通常実施権をいいます。莫大な費用をかけて開発した新薬についても、強制的に実施権を付与させることを可能とする制度です。

強制実施権については「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)に定めがあり(31条)、ほとんどの加盟国は国内法で同様な規定を有しています。

インドでは2012年3月に強制実施権の発動があったようです。

インド特許局は3月12日、現行法で初めての強制実施権を発動した。がん治療薬の特許を持つドイツ企業に対して、インド企業が強制実施権の発動を申請したことによるものだ。現行特許法で初の強制実施権発動−日本企業の製薬ビジネスにも危機感−(インド) | ビジネス短信 – ジェトロ

公共の利益のための裁定実施権

わが国の特許法にも、特許発明の実施が「公共の利益のために特に必要な場合」には、実施をしようとする者はライセンスの協議を求めることができ、協議が調わない場合等には経産大臣の裁定を求めることができる旨の規定があります(特許法93条)。

このような裁定に基づいて許諾される通常実施権を、裁定実施権といいます。

わが国の裁定実施権には、「公共の利益のために特に必要な場合」の他にも、不実施の場合(83条)、利用関係にある場合(92条)が法定されています。

条文を見る
特許法
第九十三条 特許発明の実施が公共の利益のため特に必要であるときは、その特許発明の実施をしようとする者は、特許権者又は専用実施権者に対し通常実施権の許諾について協議を求めることができる。
2 前項の協議が成立せず、又は協議をすることができないときは、その特許発明の実施をしようとする者は、経済産業大臣の裁定を請求することができる。(以下略)

裁定実施権を求める請求があった場合には、特許権者等の答弁書提出、審議会への求意見等を経て、経産大臣は通常実施権の範囲と、対価の額等を裁定にて定める事ができます。公共の利益のための裁定の請求は、私人だけではなく行政機関等も行う事が想定されますので、判断権者も経産大臣となっています。なお、不実施、利用関係の場合の判断権者は特許庁長官です。

公共の利益のために特に必要な場合とは

特許法93条の「公共の利益のために特に必要な場合」としては、次のようなもの想定されています。

公共の利益のために特に必要な場合
  • 国民の生命、財産の保全、公共施設の建設等国民生活に直接関係する分野で特に必要である場合。
  • 当該特許発明の通常実施権の許諾をしないことにより当該産業全般の健全な発展を阻害し、その結果国民生活に実質的弊害が認められる場合。

例としては、発電に関する発明であってその発明を実施すれば発電原価が著しく減少し需要者の負担が半減するような場合であるとか、ガス事業に関する発明であってその発明を実施すればガス漏れがなくなりガス中毒者が著しく少なくなるような場合が挙げられます(工業所有権法(産業財産権法)逐条解説〔第21版〕)。

新型コロナウイルスのワクチンについても「国民の生命に直接関係する分野で特に必要な場合」に該当するかもしれません。

なお、裁定実施権はあくまでも通常実施権を許諾するのみですから、特許権の放棄とは異なり、対価の額等も裁定で決せられることになります。

裁定実施権は伝家の宝刀

今日までに、公共の利益のための裁定の請求がされたことはありません。また、他の裁定についても20件程度の請求があったようですが(実用新案権、意匠権を含む)、いずれも裁定に至る前に取り下げられており、裁定実施権が設定されたことはありません。

しかし、この規定があるため、裁定によって強制的に対価の額等を定められてしまうよりは、任意の協議によって対価の額等をはじめとする通常実施権の条件を決めるほうが経済的合理性に適うと思われます。

そういう意味では、裁定実施権制度は未だ抜かれたことのない伝家の宝刀といえるかもしれません。